昭和48年01月15日 朝の御理解
御神訓 一、「信心して、まめで家業を勤めよ。君のためなり。国のためなり。」
一、「不浄のある時は先に断りおいて、願いあることを頼めよ。」
信心してまめで家業を勤めよ。是は信心してまめでと言う事は、どう言う事だろうか。それは元気で信心してとは仰ってない。信心してと先に信心によって、まめでと仰っておられる。だからこれは普通の元気という事ではない。所謂それは病気をしておっても、心が生き生きとしておれば良いのである。
信心してと言う事はわが心が、神に向かっておると言う事である。是は信心しておかげの方を向いておるのではなく、心が神の方へ向かっておる。言うなればお道の信心は、総生神への道だと。全ての信者が生神への道を、ひたすらに歩かせて頂くのが、お道の信心だと。と言う風に向きがわが心を、神に向うておるという。先日から頂く御理解で言うと、私共が大改まりに改まった時の姿なんです。
おかげを頂かなければならんから、信心しておるという信心から信心を頂く為に、わが心が神に向こうて行くと言う事の為に、信心というのはあるのだと。自分の心が自分の魂が、神に向かって進化して行く。それが信心なのだと。もう向きを変えてしまう。そういう信心。とてもとても私共が一生、二生掛かった所で、生神の境地等と言うのが、開けそうにもないのですけれども。矢張りこの世で出来ん所は、あの世にまで持って行って、あの世でも矢張り、生神を目指しての修行が出来なければいけんです。
私は昨日むつ屋の、佐恵子さんの三年祭を、昨日奉仕させて頂いて、本当に有り難いと感じた事は、御霊様が五つの願いを願っておられるという事です。今お花があそこに生花のお供えがしてあります、生花じゃない盛花ですかね。あれがね真っ赤なバラと真っ白の百合と、それから根元に茗荷の予後茗荷と言うでしょうかね、紫色の濃い紫の根がしめてあって、それに松があしらってあります。それに花を全部整える役ですかね、三本の春の若々しい芽が出かかっておる木を三本使ってある。この五種類使ってある。
これが昨日の御理解を頂くとね、五つが御霊様が願っておられる。もう合楽の信心に同調しておられると言う事。御霊様もご縁を頂いておられる、御霊様達は。ですから御霊ながらもやはり生神を目指して、進んでおられるという事が分かるでしょう。ですから私共がね、例えば一生かかってからでもです。一生かかっても、とても出来そうには思われないけれども、やはり向きだけは、生神へ向けとかなければならないという事。わが心が神に向かうと言う事。
ですからそういう偉大なというか、大きな願いに、私共は賭けておりますから、心がいつも生き生きとして若々しいです。この世にて果たせるべきもなき願い抱きおれば、吾常に若しという事なんです。大きな願いと言うものを、自分の心の中に頂いておるとですたい。心は何時も生き生きとしておる。そういう意味です。まめでと言うのは。皆さんが大きな願いそらそれぞれに、皆大きな願いは総理大臣になりたいとか、まぁ大きな願いを持ってると言いますかね。
それでもやはり心は、生き生きとして来るだろうと思います。それはやっぱりお国の、ああいう大きな御用をなさる方達は、皆年配ばっかりですけれども、もうそれこそ席の温まる間もなく、あの石井光二郎さんのお話を聞いたのですけれども。もうやがて八十でしょうかあの方は。それでいて東京久留米を、こうやって飛んで回っておられるという話を聞いたんですけれどもね。これは去年でしたか、そんな話を聞いたんですけれども、そういう大きな願いを持っておると、心が何時も生き生きしてくる。
その私共の大きな願いと言うのはどこかと言うと、生き神を目指すと言う事。信心してまめでと言うのはそう言う事。家業を勤めよと言う事は、最近五つの願いの中にも、愈々子孫繁盛家繁盛の事を願うならばです。家業を勤めなければならない。本気で勤めなければならない。信心で勤めなければならない。そういう心大きな願いを持っておる。そこから生れてくる若々しさ、生き生きとした心。瑞々しい迄のいわば心を持って、しかも家業に当たる。しかも忠実に君のためなり国のためなり。
どうぞ子孫繁盛家繁盛のおかげを頂かせて下さい。そしてそれが真実の御用が出来ます事の為に、神願成就の事の為の、お役に立たせて頂きたいと言う一念がです。そういう子孫繁盛家繁盛をを願う事になるのですから。それは国の為と社会の為という事です。日本国なんかと言う、小さい事ではないと。同時に自分自身の家の為にも、身の為にもと言う事だという風に、頂かなければならんと思うですね。君の為なりと言う事は。君自身の為それがいわば、天下国家の事の為にまで繋がる。
私は合楽教会の大発展を願う。これは毎日願う。けれどもそれはです。道の発展に繋がり、いや世界真の平和の事の為に繋がる為にも、どうでも合楽教会は、大繁盛のおかげを頂かなければならない。大ご比礼を頂かなければならんと思うから願います。所謂君の為なり、国の為だと言う事になるでしょう。私自身もそのおかげの中におれるのですから、私自身の為でもある訳なのです。私は今日の信心を神に向う。
大改まりに改まった所の信心とは、わが心が魂が、神に向かって進化して行くと言う事が信心だと、こちらに向きを変えてしもうてそこからです。そこからの願に立つのが五つの願いです。もう自分の心が、神の方へ向かってしまってからの願は、どういう事になるかと言うと、それはそのまま、神の願いなのです。天地金乃神様の願いなのです。氏子信心して、おかげを受けてくれよと言う、神の願いなのです。まめである事も健康であるという事も、家庭が円満であるという事も。
社会天下国家の為に健康でありたいのであり、繁盛のおかげを頂きたいのであり、家庭円満の大みかげを頂きたいのであります。所がです私共の場合は、そういう言うなら筋の立った、成る程これを以って真の信心だろうと思う思いで、そういう祈り願いというものをさせて頂くのですけれども、さぁそこが悲しいかな、信心の足りない所であってです、健康も、家繁盛も、子孫繁盛も、家庭円満も、言うならば真実の御用とか、神願成就の事の為に本当の意味で、繋がっていないと言う事を知ります。
希薄であることが、そしてそこん所をです。私は不浄のある時は、と言う事になると思うのです。次の御神訓。自分の心の中にどうぞ、商売大繁盛のおかげを頂かせて下さい。それはあなたの為でと言うてもおり、思うてもおるのだけれども、実際は自分も楽したいという気持ちも、中に入って来る訳なんです。私共の場合。完全に神の方へ向かっておる様であるけれども、やはり向かってない時の、只、我情我欲で願っておった時の信心、心持ちというものが、やはり入って来るのである。
それを打ち払い打ち払い、進んで行くと言う事なんだ。そこん所が言わば不浄のある時は、と言うことになる。そこで不浄のある時には先に断りおいて、と言う所が、素晴らしいじゃないですか。私共はやっぱそういう心が起こる。少しでもやっぱり楽になりたいという願いがあるから、健康も願えば家庭円満も願えば、子孫繁盛家繁盛も願うのであるような結果に於いては、そういう感じが強うなって来る訳なんだ。そこに例えばその願いは、不浄の事になるでしょう。不浄のものだと。
不浄とは成就しないという意味にも、四神様は説いておられますね。お道で言う不浄とは、願ってもそれが成就しない事が、不浄だと仰っておられる。それを神様は一番お嫌いなさるんだという意味の事を、説いておられますから。ですからその不浄のままでは、成就しないのです。ですから、そこん処に詫びが要るのです。私がこうやって、一生懸命子孫繁盛家繁盛を願っておりますけれども、それには私的な、私心と言うか私心のいわば願いが、それに入っておる処は。
どうぞ神様凡夫の事で相すまん事でございますけれども、不浄のある時には、先に断りおいてその事はお詫びをさせて頂いて願うのだ。「不浄のある時は、先に断りおいて、願いあることを頼めよ。」と言うことは、今日その様な風に頂いた。私共が五つの願いを一生懸命させて頂いておる。しかもその願いが成就して行くという事は、わが心が神に向こうて行くという事に繋がる。第一家庭円満を願うからにはです。もう決して人を責めるようなことは致しませんと。
これはこの一言じゃありません。願うからには、神様の機感に適わん心どもがです。私共の心の中にあるならばです。それを一つ一つ改まって行きますと言う、その中の一つなんです。人を責めると言う事程、神の機感に適わん心はありません。ですからそういう心を、除いて行こうという信心ですから、神に向こうて行く、進んで行く訳です。神に向かう。是は私共が一生かかっても果たす事は出来ない、願いだと思います。
だから私達は、もうそげな難しか事は、願わんでんと言うのでなくて、矢張り向きだけはそちらへ、変えておかなければ、それが改まると言う事です。おかげおかげ御利益御利益と言う様な意味で、御利益の方にばっかり、向いてる時にはもうそれは既に、真の信心ではない。自分の心が、魂が神に向かって進んで行くという事が、信心なのだと。と向きを変えてしまうとです、例えば事柄があっても、問題があってもです。成る程神になる為の修行なのだから。心が愈々この事によって清められるのだから。
神様に一歩でも近ずいて行けるのだからと、そこにはもう問題ではなくて、この様にして私を育てて下さると言うものだけしかないです。向きを変えてしまっておくと。それを、おかげの方ば向いておると、こがしこお願いしよるばってん、おかげ神様がやんなさらんと言うて、神様がやりきんなさらん様な思い方をする。だからここん処を本当に私共が一掃してですね。わが心が神に向かってしまって、そしてわが心が神に向かうのが信心であるという事をです。
心の中にしっかり頂くと言う事が、大改まりと言う事です。ここで改まってしまう。それでも尚且つです。そういう例えば時点と言うかね、そういう信心に立たせて頂いて、これは願わなければおられなくなって来るのがです、五つの願いです。わが心が神に向こうて行けば行くほどに、所謂今日の御理解です。社会天下国家の為にもです。為にも御用をさせて貰わなければならんのですから、真実の御用を、させて貰わなければならんのですから。神願成就の事の為に、働かせて貰わなければならんのですから。
どうでもこの五つの願いが、成就する事にならなければ、本当の御用が出来ない。だから願うのである。ですからもう全然違でしょう。 願いという事の内容がね。例えば牛馬の事に至るまで、実意を以て願えと仰る是なんです。私は実意とはね。そういう今日私が申します様な事だと思うです。お役に立ちたい。その一念がわが心が神に向かって行くことの、いよいよ有り難さがです。願われなければおられない。祈らなければおられないと言う、五つの願いになって来る。
けれども悲しいかな人間の我情我欲が、やっぱり出てきて、神に向かっており乍ら出てきて、そして願っておる事が、我情が欲の為に願っておるような自分に気がつく時です。自分のはまぁだ純粋な物じゃないなぁ、ほんなもんじゃないなぁと言う時にです。私の今願っておる事は、人間凡夫で本当に相済まん事でございますけれども、こういう不浄の心がかかっております。そこん所は神様のおかげで、お払いを頂いて、そして綺麗なもの清らかなものとして、お受け取り下さい。
この祈りを聞き届けて下さいと言う事になる。先に断りおいて願いある事を。だからお詫びをして、願わなければならないと言う事になります。今日は「信心してまめで、家業を勤めよ。君の為なり国の為なり。」「不浄のある時は先に断りおいて、願いある事を頼め」と、続いての御伸訓に基づいて、そして是はもう絶対のもの。神様が願いになっておる意味に於いての、理解づけと言うものを、今日は頂いた様に思うです。
例えば信心してまめでと言う事は兎に角、元気でという風だけにしか頂かなかった。けれども私は今日は信心してまめでと言うのは、そんなもんじゃない。自分の心が大いなるものに向かって願う。生神へ向かって心が向きを変えておる。ですからどんな場合であっても、自分の心が躍動してくる。自分の心が瑞々しい迄に、生き生きとしてくる。そういう心を今日は例えば、まめでという風に聞いて頂いた様にですね。
大変意味が深いです。ですから皆さん良くここの所を納得されて、そして愈々五つの願いに、それこそここにご縁を頂いておられる御霊様達ですらが、この事を祈り願っておられる。それはやはり御霊様も、御霊の位も進んでおいでられなければいけん。生神を目指しておられるのである。ですから現世にある私共もです、やはりわが心が神に向こうて行くと言う、高度の信心に大改まりに改まらせて頂いての願いに立つ。それが今合楽で言われておる、五つの願いだという風に聞いて貰いましたね。
どうぞ。